昨年の12月、3年ぶりに日本に帰って違和感を感じたのは、テレビに映る女性の顔だった。目がなんとなく違う。鼻もちょっと変わってる。顎は妙に尖ってる感じ。唇は異常に動物化されている。多分メークと照明の関係もあるのだろうけど、この違和感が印象に残った。
アメリカに住む7歳の女子小学生が母親の勧めで耳の整形をしたというニュースを今朝見た。理由は彼女の耳は横につきでていて、「ダンボ」とからかわれたことがあり、将来のいじめを防ぐためとのこと。整形前と整形後の写真を見ながら、またあの違和感を思い出した。「他の人とちょっとちがう」という空想的な違和感が創る新しい事実的な違和感である。
http://abcnews.go.com/GMA/video/bullied-child-plastic-surgery-13373152
南カリフォルニアに住んでいると、いろいろな整形後に遭遇する。まん丸のとっても硬そうな胸を堂々と見せびらかしながら颯爽と歩く女性たち。大きさはグレープフルーツからメロンぐらい。さすがにスイカサイズはまだ見たことはない。年齢はいろいろで高校生から始まって、上は60歳ぐらい。豊胸以外にも、ボトックスで顔の一部が動かない人、フェイスリフトで顔がぴんぴんで目がひきつっている人、吹いたら鼻が飛んでしまいそうな人、女性器のような唇でしゃべる人など、いろいろな違和感を観察するうちに、これが普通、あるいは平均基準になってしまったのではないかと思ってしまう。1970年以前のハリウッド映画を観るたびに、「なんか違う」と思いながら、大きくて硬そうなメロンを探してしまうのである。
美の基準から離れることを不安に思い、何とか平均値枠内にとどまろうと努力しながらも、「自分はなんなんだろう?」と疑問に思う女性は多いのでは。美の基準を見直し、それを越えられるような環境を創り出せないのかと。ルネサンス以降の科学技術の発展により、人間はそれまでには考えられなかったことを実現できるようになった。整形手術もそのひとつである。テクノロジーの進化発展は人間の欲望やニーズに応えることができるが、計画外、あるいは「想定外」な結果とどう対応してゆくかを今、いろんな形で問われている。人間、自然、人造、不自然のカテゴリーが崩れるなか、自分と社会との関係、そして歴史(過去、現在、未来を含めた歴史)との関係を考えながら、自分という個の定義を求められる今である。